1月29日まで10連勤だったので、30日から読みたかった本に向き合う時間が少しだけ出来た。
1967年10月8日羽田空港弁天橋でベトナム反戦を訴える京都大学一年生が亡くなった。
この事件を契機に、全国に学生運動が広がり激化して東大安田講堂事件へ
向かっていく。
亡くなった学生=きみが死んだあとで、きみに関わった当時の若者がどのように生きてきたのかを14人のインタビューを通じて描き出したのが、映画『きみが死んだあとで』。
映画に収録出来なかったものを書き下ろし、監督自身の記憶をエッセイとして加えたのが、この本である。
内田は全共闘世代ではないのだが、遅れてきたものとして全共闘世代のバイブルと言われる高橋和巳の本も読んだ。
扉の一言は、
何事の起りしやは明らかならず、
そのとき橋はたそがれてあればなり
そのとき橋はたそがれてあればなり
学生達が機動隊と衝突して、一人の学生が橋から転落するのを目撃する主人公が、保身のために口を噤む。
その主人公の苦悩が描かれている。
イデオロギー云々を問わずに、知識人の苦悩という点に関心があって、高橋和巳の本を読み漁った。
その扉の一言が、今回、この本を手に取らせることになる。
監督のエッセイの中に、彼が大学生の時に読んだ
に触れていたので、思わず、書棚にある色褪せた文庫本を手に取ってみた。
1969年7月20日1日に主人公が体験した出来事のみが描かれている。
解説は、山崎正和だったんだ(@@)
どのみち、どんな時代にも青年の理想は破れるものであるが、現代の困難はそれがまだ未熟なうちに幻想を招き、激しく試された後に劇的に挫折するだけの十分な時間がないということであろう。
青年の夢が真の現実にぶつかる前に、時代の全体像が流れ去ってしまうのであって、いわば夢は粉砕されることなく、揶揄されてしまう。
その結果、十分には若者でもなく、しかもまだおとなでもない人物がを群れをなす